コーヒーの歴史 過激さを増すサービス競争

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女性給仕によるサービス競争の激化!カフェー・ライオンとカフェー・タイガー

 1911年に開店した三つのカフェによってスタートした日本の喫茶店文化は、急速な西洋化・近代化の波に乗り一気に全国に広まっていきます。

 そのなかでも特に数の面で突出しているのは、女性の給仕による過激な接待を売りにしたカフェーたちでした。

 特に有名なのが、関東大震災の翌年に「カフェー・ライオン」の斜向かいに店を構えた「カフェー・タイガー」です。

 位置取りも店名も完全に「カフェー・ライオン」を意識していたことは明白で、当時「品行方正」な女給仕を売りにしていたライオンに対して、タイガーは「美しい女給と濃厚なサービス」を標榜し、より大衆的なコンセプトを取っていました。

 また、女給仕をタイプ別に赤、青、紫のグループに分け、ビール一本に一枚ついた投票券で人気投票をするなど、現在のアイドルグループのようなプロモーションも展開。

 文藝春秋社の創業者であり小説家でもある菊池寛が、ビールを150本購入してお気に入りの女給を一位にしたという逸話が残るなど、かなり盛り上がっていたようです。

 こうした差別化攻勢のほか、規律の厳しいライオンから華やかなタイガーへ人気の女給仕が移っていってしまったこともあり、どんどんと評判に差がついてゆきます。

 そして、1931年にカフェー・ライオンがビヤホールへと業態を変えたことで、カフェー・タイガーの勝利で決着がついたのでした。

あまりの過激化により規制がはいった「特殊喫茶」と、区別のための「純喫茶」

 ただ、その間にも過激なサービスを売りにするカフェは増え続け、さらに競争は激化。

 特に関西方面でのサービスの過激化はすさまじく、有名なお店は関東へもどんどんと進出してきたため、1929年に「カフェ・バー等取締要項」が、昭和に入った1933年には「特殊飲食店取締規則」が出されるなど、警察による規制も行われるようになりました。

 1935年にはそれらの波に飲まれるように、カフェー・タイガーも閉店に追い込まれてしまいます。

 こうした現在で言う「キャバクラ」などに近い業態のカフェは、コーヒーが主体となるカフェと区別するために「特殊喫茶」と呼ばれていましたが、利用者数や店舗数が多かったことから、単に「カフェ」と言った場合は特殊喫茶のほうを指すことの方が多くなり、逆にコーヒーを楽しむお店を指す「純喫茶」という名称が生まれました。

勢いに乗るコーヒー業界に世界大戦が影を落とす

 「カフェ」に押され気味ではあったものの純喫茶の店舗数も急激に増え、最盛期には東京だけでも両形態あわせて1万店舗を越すほどの勢いだったといわれています。

 しかし、1937年からはじまる一連の戦争に伴う戦時統制によって、贅沢品であるコーヒーの販売や飲用は規制されるようになり、やがてコーヒー豆輸入自体がストップ。

 代用コーヒーを使用して営業を続ける喫茶店もありましたが、多くのお店が閉店を余儀なくされました。

 当時の日本におけるほかの全ての文化と同じように、コーヒー、そしてカフェの文化も、戦争による暗い冬の時代に突入していきます。

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