コーヒー伝来からカフェ設立前。異国文化としてのコーヒー
日本で始めてコーヒーが飲まれたのは、鎖国中も唯一海外と接触のあった長崎・出島のオランダ商館でのことだと言われています。
ヨーロッパでコーヒー豆の輸入・販売が始まったのは1640年頃、オランダ・アムステルダムが最初とされていますが、奇しくもほぼ同じ年(1639年)から鎖国を始めた日本にも、同じオランダ商人によってコーヒーがもたらされたことになります。
コーヒー豆が日本に持ち込まれた時期は定かではありませんが、19世紀には蘭学者によるコーヒーを紹介する文献や飲用レポートなどが記されるようになってくることから、18世紀後半頃ではないかと推測されています。
はじめは、出島に出入りできる限られた役人や蘭学者、一部の特権階級のみが口にし、一般の人々には存在すら知られていませんでした。
やがて鎖国が解かれ時代が明治に移ると、文明開化の一端として洋食屋などでコーヒーを提供する店が見られるようになり、1888年、「可否茶館」が日本で始めての喫茶店として開店しました。
ただ、これは現在イメージされるような喫茶店とは異なり、コーヒーだけではなく異文化全般に対する知識と体験を得るための施設として設計されており、国内外の珍しい文献や外国の新聞、ビリヤード台などが設置されていたそうです。
シャワーなどまであったということですから、今で言うネット喫茶のような感じだったのでしょうか。
しかし、一般的にはまだまだ海外の文化やコーヒーの味が受け入れられなかったのか、残念ながら経営は振るわず5年で閉店してしまいました。
日本のカフェの原点となる三大カフェーが創業
その後、20年ほど経った1911年に、ヨーロッパのカフェをお手本とした「カフェー・プランタン」が銀座に開店すると、同年「カフェー・パウリスタ」「カフェー・ライオン」も創業。
この三店が日本のカフェ、喫茶店に与えた影響が非常に大きいため、この年を「日本でカフェが営業を始めた年」とする意見もあるそうです。
「カフェー・プランタン」は、画家の松山省三とその友人の平岡権八郎、小山内薫が、芸術談義をできるサロンとして設立したカフェで、当初は会員制を取っていたとのこと。
コーヒーだけではなく、洋酒やめずらしい洋食なども提供し、谷崎潤一郎や永井荷風など当時の文化人たちがこぞって利用する格式高い店としての評判を得ていました。
「カフェー・パウリスタ」はブラジル移民団を企画した皇国殖民株式会社の社長、水野龍が大隈重信の助けを得て設立したカフェ。
日本からの移民は勤勉で忍耐強いと高評価を得たものの、少し前まで奴隷制をしいていたブラジルとは労働文化の違いが大きく、事業は難航していました。
そこでその赤字を少しでも埋めるためにと、サンパウロ州政府からコーヒー豆1000俵を3年間無償提供されることとなり、これを元に廉価で本格的なコーヒーが楽しめるお店としてカフェー・パウリスタを設立したのです。
豪華な内装や清潔な制服を着た給仕がいるなかで、本格的なブラジルコーヒーを一杯5銭(現在の価値で約900円)で楽しめることから大評判となり、「銀座でブラジルコーヒーを飲む」、いわゆる「銀ブラ」という言葉までできるほどでした。
また、銀座だけでなく名古屋、神戸、横須賀などにも出店していた、日本初のカフェ・チェーン店でもあったそうです。
「カフェー・ライオン」は同じく銀座に開店したカフェで、コーヒーに注力するというよりは洋食、酒、そして美しい女給仕(ウェイトレス)を売りとしたお店でした。
特に和服にエプロンという制服で揃えた美人給仕は男性客から大評判を得ていましたが、当時はまだ隣に座ったり体を触らせたりといった「給仕以上のサービス」はしておらず、むしろプライベートでも品行の良さを求められていたそうです。
その衣装や方針などから現在のメイド喫茶などの先駆けともされていますが、あまりにも規律を厳しくしすぎたため、競合店であった「カフェー・タイガー」に人気の給仕を引き抜かれてしまい集客力が低下。
最終的にビヤホールに事業変更するまでの最後の数年間は、規律を緩めて同席サービスなども行っていたようです。
その後、西洋文化の流入と急激な西洋化に伴い、これら3店舗の「サロン形式」「専門店」「チェーン店」「女性によるサービス」などの各方向性を受け継ぎながら進化したカフェが瞬く間に増えていき、日本の第一次カフェ興隆期と呼ぶべき時代が幕を開けるのです。