コーヒーの歴史 戦後の喫茶店文化

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代用コーヒーや放出品。物資不足と戦いながらも再開するカフェ

 戦時統制による贅沢品指定、コーヒー豆輸入停止、そして物理的な破壊と人口の減少。

 「カフェ」がそれら戦争の残した深刻なダメージから脱し、再びコーヒーが飲まれるようになったのは1947年頃と言われています。

 とはいえ、日本酒など国産の嗜好品や贅沢品はもちろん、日用品すら満足に手に入らない人々がまだたくさんいた時期のこと。

 いち早く営業を再開したカフェで提供されるのも、戦中と同じような代用コーヒーやアメリカ軍から放出されたわずかなコーヒー豆を使用したものでした。

 人々が本格的にコーヒーを飲めるようになるのは、1950年にコーヒー豆の輸入が再開されてからだったそうです。

個人経営のお店によって花開く「日本の喫茶店」文化

 戦争によって閉店や倒産、業態の変更などが相次いでいたため、戦後しばらくは個人経営のお店が喫茶店文化の担い手となりました。

 1950~60年代には、9割以上が個人経営であったといわれています。

 そのため、店主の主義や主張、趣味などが色濃く反映された個性的な店も多く、サービスやコンセプトの多様化が進みました。

 例えば、特定のジャンルの音楽の生演奏を行う「ジャズ喫茶」「シャンソン喫茶」などはその代表格で、「銀巴里」「銀座ACB(あしべ)」などではいまの喫茶店のイメージとは程遠い大規模なステージや音響設備が整えられ、美輪明宏や戸山英二、平尾昌晃など著名なアーティストが連日のように出演していたとのこと。

 また、当時はテレビやレコードなどを個人で購入できる人が少なかったことから、近隣の人々にそれらの娯楽を提供する場として「テレビ喫茶」「名曲喫茶」などが生まれました。

 これらのジャンルのカフェは、流行に乗って大成功を収めたものの時代の変化によって役目を終え、今はもう見られない形態のものがほとんどですが、クラシックやジャズなどのBGMを売りにした店や客が一緒に歌うカラオケ喫茶など、サービスの詳細を変えつついまも営業を続けているケースもあります。

 コーヒー豆が制限なく輸入されるようになると、しだいに産地や品質などにこだわりをもつお店も増えてきました。

 いまや日本が8割以上を輸入している高級ブランド「ブルーマウンテン」をはじめとし、音楽や映画などの影響で有名になった「モカ・マタリ」「キリマンジャロ」などがメニューに並び、ただコーヒーを飲むだけではなく豆ごとの風味の違いを楽しむために喫茶店に通う人々も現れます。

 そのこだわりは次第に焙煎度合にまで及び、独特の生臭さや酸味がなく(品質にもよりますが)深いコクの生まれる「深煎り」がもてはやされるようになりました。

 ドリップの方法や器具によっても味わいが変わることが一般にも広く知られるようになったため、サイフォンネルドリップなどの使用器具、そしてコーヒーを淹れるひとの技術などが評価の対象となり、「コーヒーのみを純粋に楽しむ喫茶店」の中でも、ジャンルが細分化していくことになります。

インスタントコーヒーや缶コーヒーの普及

 また、日本のコーヒーを語る上で忘れてはならないインスタントコーヒー缶コーヒーが生まれたのもこの時期になります。

 インスタントコーヒーは、19世紀中には既に発明されていましたが、当時は一般への流通にまでは至りませんでした。

 しかし、1960年代にコーヒー豆の輸入が完全自由化すると国産のインスタントコーヒー製品が複数作られるようになり、一般市場でも販売されるようになります。

 戦時中に軍備品として使用されて知名度が上がり、研究が進んだことで風味も向上していたため、生活スタイルの変化に伴い手軽にコーヒーを飲みたい層に支持を受け、これ以降一気にシェアを伸ばしていくことになるのです。

 缶コーヒーはこれよりやや遅れた1960年代の終わりに登場しましたが、やはりこれも手軽さの面で支持を受けました。

 レギュラーコーヒーやインスタントに比べるとどうしても劣る味を甘味料や香料などでカバーし、単なるコーヒーの代用品ではなく「缶コーヒー」という一ジャンルとして独自の進化を遂げた結果、今では世界でも類を見ないほど多種多様な製品が販売されています。

 戦後の復興と急速な経済発展、そして生活スタイルの変化に寄り添うように形を変えていった日本の喫茶店やコーヒーは、しかし1980年代から世界の大きな波に直面することになります。

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